清少納言の“哀れなるもの”で趣深い感情を楽しむ。
「序でなり」として途中に置かれた「斬新な御嶽詣の一場面」が新しい時代の到来を思わせます。『清少納言の言葉・響きで読むと』時の流れ、移ろいといったものも豊かに見えくる様に思います。
清少納言さんの言葉・響きで読みたい段です。
しみじみと感じられる物
孝有る、人の子。鹿の音。良き男の若きが、御嶽精進したる。隔て居て、打ち行ひたる暁の額など、いみじう哀れなり。睦ましき人などの、目、覚まして聞くらむ思ひやり。詣づる程の有り様、如何ならむと、慎みたるに、平らかに、詣で着きたるこそ、いと、めでたけれ。烏帽子の(損じたる)様などぞ、少し、人悪ろき。
親を大切に思う、人の子。鹿の鳴く声。これからが楽しみな若い子が御嶽詣のための修行に入っている。見えはしない所に居て「修行に打ち込み明け方に響かせる読経」を聞くなどは、たまらなく「哀れ」。親しい人などは目を覚まして聞いているのだろうという想像。御嶽詣にでているその道程、様子は、どんなだろうと、心配し思うのは、何事も無く、御嶽に詣で着くこと、これが何よりとても喜ばしい。烏帽子が綻びている様などは、少し、人を心配させる。
猶、いみじき人と聞こゆれど、こよなく窶れて詣づ、とこそは知りたるに、右衛門の佐・宣孝は、「味気無き事なり。唯、清き衣を着て、詣でんに、何でふ事か有らむ。必ず、よも(蔵王権現)「悪しくてよ」と、御嶽、宣はじ」とて、三月晦日に、
偉人とされる人であっても、目立たない身なりで詣でるとは知っているからこそ思うことだけれど、
宣孝が「味気ないではないか。唯、素敵な服を着て詣でることに、何の問題がある。「みすぼらしくしていなさいよ」と神様が言っているとは、御嶽様だって言はないだろ」といって、
紫の、いと濃き指貫、白き直衣、あを山吹の、いみじくおどろおどろしき、などにて、隆光が、主殿の亮なるは、あを色の、紅の衣、摺りもどろかしたる水干袴にて、打ち続き、詣でたりけるに、帰る人も、詣づる人も、珍しく、怪しき事に、(人々)「全て、此の山道に、斯かる姿の人、見えざりつ」と、あさましがりしを、四月晦日に帰りて、六月十日余りの程に、筑前の守、失せにし替はりに、成りにしこそ、(人々)「実に、言ひけむに、違はずも」と、聞こえしか。
紫のとても濃い袴に、白い上着、表は白く裏は黄色いあを山吹の、とても奇抜な服を着て、隆光も裏の赤い丈の短い上着に袴で、続き、詣でたのだ、この斬新で見慣れない事態を(人々)「この様な姿の人は見たことが無い」と呆れ驚いていたのに、帰った後、筑前の守が失せ替わりに、筑前の守に成ったものだから「本当に、言う通り、間違いはないのだよな」と噂になったっけ。
これは御嵩のついでの話。
九月晦日、十月朔日の程に、唯、有るか無きかに、聞き付けたる螽斯の声。鶏の、子、抱きて、臥したる。秋深き庭の浅茅に、露の、色々、玉の様にて、光りたる。河竹の、風に吹かれたる夕暮れ。暁に、目、覚ましたる、夜なども、全て、思い交はしたる若き人の、中に。塞ぐ方、有りて、心にしも任せぬ、山里の雪。男も女も、清気なるが、黒き衣、着たる。二十日余り六日・七日ばかりの暁に、物語して、居明かして、見れば、有るか無きかに、心細気なる月の、山の端近く、見えたるこそ、いと、哀れなれ。秋の野。年、打ち過ぐしたる僧達の行ひしたる。荒れたる家に、葎、這ひ掛かり、蓬など、高く生ひたる庭に、月の、隈無く、明かき。
秋口に、微かに聞く螽斯の声。鶏が子を抱えている姿。秋の深まる庭の草に、あちらこちらで光る玉のような露。竹が風に吹かれている夕暮れ。夜明けまで起きていた夜など、全て、思いを交わした若い人の中にある、すべて。上手くいかない人もいて、心のままにも居られなくて。山里の雪。黒い服を着ている清らかな人。語り合っているうちに朝が来て、見れば、微かに心細気な月が、山の端近くに見えているなんて、本当にしみじみとする。秋の野。歳を十分に重ねた僧侶たちの御勤めをしている姿。荒れた家に、葎、つたが這い掛かり、蓬などが高く生えている庭、月の、陰りのない、明かり。
荒くはない風が、吹いている。
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メモ
下の写真は江戸時代に多く出回ったという枕草子/春曙抄の海賊版と思われるものです。六冊目の13枚目、中あたりから「哀れなる物」はあります。
下の写真は、岩波文庫さんの枕草子(春曙抄)です。上の春曙抄の本文と注釈を字母にして下さっている本です。