中宮に、初めて参りたる頃、物の、恥づかしき事、数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々、参りて、三尺の御几帳の後ろに、候ふに、絵など、取り出でて、見せさせ給ふだに、手も、え差し出だすまじう、理無し。(中宮定子)「此は、と有り。彼は、斯有り」など宣はするに、高坏に参りたる大殿油なれば、髪の筋なども、却々、昼よりは顕証に見えて、羞明けれど、念じて、見など、す。いと、冷たき頃なれば、差し出でさせ給へる御手の、僅かに見ゆるが、いみじう匂ひたる薄紅梅なるは、限り無く、めでたしと、見知らぬ里び心地には、(清少)「如何は、斯かる人こそ、世に御座しましけれ」と、驚かるるまでぞ、目守り参らする。
暁には、(清少)「疾く」など、急がるる。(中宮)「葛城の神も、暫し」など、仰せらるるを、(清少)「如何で、筋違ひても、御覧ぜむ」とて、臥したれば、御格子も、参らず。女官、参りて、「此、放たせ給へ」と言ふを、女房聞きて、放つを、(中宮)「待て」など仰せらるれば、笑ひて、帰りぬ。物など、問はせ給ひ、宣はするに、久しう、成りぬれば、(中宮)「下りまほしう、成りぬらむ。然は、早」とて、(中宮)「夜去り、疾く」と仰せらるる。
膝行り帰るや遅きと、開け放ちしたるに、雪、いと、をかし。(中宮)「今日は、昼つ方、参れ。雪に曇りて、露にも有るまじ」など、度々、召せば、此の局主も、「然のみや、籠もり居給ふらむとする。いと、敢へ無きまで、御前許されたるは、思し召す様こそ有らめ。思ふに違ふは、憎き物ぞ」と、唯急がしに、出だせば、我にも有らぬ心地すれば、参るも、いとぞ苦しき。火焼屋の上に、降り積みたるも、珍しう、をかし。御前近くは、例の、炭櫃の火、事痛く、燠して、其れには、態と、人も、居ず。中宮は、沈の御火桶の、梨絵したるに、向かひて、御座します。上﨟、御賄ひし給ひけるままに、近く候ふ。次の間に、長炭櫃に、間無く、居たる人々、唐衣、着垂れたる程なり。安らかなるを、見るも、羨ましく、御文、取り次ぎ、立ち居、振る舞ふ様など、慎まし気ならず、物言ひ、笑笑ふ。(清少)「何時の世にか、然様に、交じらひ成らむ」と思ふさへぞ、慎ましき。奥寄りて、三人・四人、集ひて、絵など見るも、有り。
暫し有りて、前駆、高う、追ふ声すれば、(女房)「殿、参らせ給ふなり」とて、散りたる物ども、取り遣りなどするに、奥に、引き入りて、(清少)「さすがに、懐しきなンめり」と、御几帳の綻びより、僅かに、見入りたり。
大納言殿の、参らせ給ふなりけり。御直衣・指貫の、紫の色、雪に映えて、をかし。柱の許に、居給ひて、(藤原伊周)「昨日・今日、物忌にて侍れど、雪の、甚く、降りて侍れば、覚束無さに」など宣ふ。(中宮)「「道も無し」と思ひけるに、如何でか」とぞ御答へ、有なる。打ち笑ひ給ひて、(伊周)「「哀れ」ともや御覧ずる、とて」など宣ふ御有様は、此よりは、何事か増さらむ。(清少)「物語に、いみじう、口に任せて言ひたる事ども、違はざンめり」と覚ゆ。
中宮は、白き御衣どもに、紅の唐綾、二つ、白き唐綾と、奉りたる、御髪の掛からせ給へるなど、絵に描きたるをこそ、斯かる事は見るに、現には、未だ知らぬを夢の心地ぞする。
女房と、物言ひ、戯れなど、し給ふを、答へ、些か、恥づかしとも思ひたらず、聞こえ返し、空言など、宣ひ掛かるを、抗ひ論じなど、聞こゆるは、目も綾に、あさましきまで、あいなく、面ぞ赤むや。御果物、参りなどして、御前にも、参らせ給ふ。
(伊周)「御几帳の後ろなるは、誰ぞ」と、問ひ給ふなるべし。(女房)「然ぞ」と申すにこそ、有らめ、立ちて御座するを、(清少)「外へにや、有らむ」と思ふに、いと近う、居給ひて、物なども、宣ふ。未だ、参らざりし時、聞き置き給ひける事など、宣ふ。(伊周)「真に、然、有りし」などの宣うふに、御几帳、隔てて、余所に、見遣り奉るだに、恥づかしかりつるを、いと、あさましう、差し向かひ、聞こえたる心地、現とも覚えず。行幸など見るに、車の方に、些か、見遣せ給ふは、下簾、引き繕ひ、透影もやと、扇を、差し隠す。猶、いと、我が心ながらも、おほけなく、(清少)「如何で、立ち出でにしぞ」と、汗、零えて、いみじきに、何事をか、聞こえむ。賢き陰と、捧げたる扇をさへ、取り給へるに、振り掛くべき髪の、怪しささへ思ふに、(清少)「全て、真に、然る景色や、付きてこそ、見ゆらめ。疾く、立ち給へ」など思へど、扇を、手弄りにして、(伊周)「絵は、誰が、描きたるぞ」など宣ひて、頓にも、立ち給はねば、袖を押し当てて、俯し居たるも、唐衣に、白い物、移りて、斑に成らむかし。
久しう、居給ひたりつるを、(中宮)「論無う、苦しと思ふらむ」と心得させ給へるにや、(中宮)「此、見給へ。此は、誰が書きたるぞ」と、聞こえさせ給ふを、(清少)「嬉し」と、思ふに、(伊周)「賜ひて、見侍らむ」と申し給へば、(中宮)「猶、此処へ」と宣はすれば、(伊周)「人を捕らへて、立て侍りぬなり」と宣ふ。いと、今めかしう、身の程、年には合はず、傍痛し。人の草仮名、書きたる草子、取り出でて、御覧ず。(伊周)「誰がにか、有らむ。彼に、見せさせ給へ。其れぞ、世に有る人の手は、見知りて侍らむ」と、怪しき事どもを、唯、答へさせむと、宣ふ。
一所だに有るに、又、前駆、打ち追はせて、同じ直衣の人、参らせ給ひて、此は、今少し華やぎ、猿楽言など、打ちし、誉め、笑ひ興じ、我も、「何某が、と有る事、掛かる事」など、殿上人の上など、申すを聞けば、(清少)「猶、いと、変化の者、天人などの、下り来たるにや」と覚えてしを、候ひ馴れ、日頃、過ぐれば、いと、然しも無き業にこそ、有りけれ。斯く見る人々も、家の内、出で初めけむ程は、然こそは、覚えけめど、斯く、し持て行くに、自づから、面馴れぬべし。
物など、仰せられて、(中宮)「我をば、思ふや」と、問はせ給ふ。御答へに、(清少)「如何にかは」と啓するに、合はせて、台盤所の方に、鼻を、高く嚏たれば、(中宮)「あな、心憂。空言するなりけり。よしよし」とて、入らせ給ひぬ。(清少)「如何でか、空言には有らむ。良ろしうだに、思ひ聞こえさすべき事かは。鼻こそは、空言しけれ」と覚ゆ。(清少)「然ても、誰か、斯く、憎き業、しつらむ」と、(清少)「大方、心付無し」と覚ゆれば、(清少)「我が然る折も、押し、拉ぎ、返して有るを、増して、憎し」と思へど、未だ、初々しければ、ともかくも、啓し直さで、明けぬれば、下りたる即ち、浅緑なる薄様に、艶なる文、持て来たり。見れば、
(女房)「(中宮)如何にして如何に知らまし偽りを空に糺の神無かりせば
となむ、御景色は」と有るに、めでたうも、口惜しくも、思ひ乱るるに、猶、昨夜の人ぞ、尋ね聞かまほしき。
(清少)「薄きこそ其れにも拠らぬ花故に憂き身の程を知るぞ侘びしき
猶、此ばかりは、啓し直させ給へ。式の神も、自づから、いと、畏し」とて、参らせて後も、(清少)「うたて、折しも、何どて、然、将、有りけむ」、いと、をかし。