【第108段】
雨の、打ち延へ、降る頃、今日も降るに、御使ひにて、式部の丞
・信経、参りたり。例の、褥、差し出だしたるを、常よりも、遠く、押し遣りて、居たれば、(清少納言)「彼は、誰が料ぞ」と言へば、笑ひて、(藤原信経)「斯かる雨に、上り侍らば、足形付きて、いと不便に、汚な気に成り侍りなむ」と言へば、(清少)「何ど。氈褥料(洗足料)にこそは成らめ」と言ふを、(信経)「此は、御前に、賢う、仰せらるるには有らず。信経が、足形の事を、申さざらましかば、え宣はざらまし」とて、返す返す言ひしこそ、をかしかりしか。「余りなる御身誉めかな」と傍痛く。
(清少)「早う、大后の宮に、「犬たき」と言ひて、名高き下仕へなむ、有りける。美濃の守にて失せにける藤原時柄、蔵人なりける時、下仕へども有る所に、立ち寄
りて、(藤原時柄)「此や、此の、高名の犬たき。何ど。然も見えぬ」と言ひける返り事に、(犬たき)「其れは、時柄(時がら)も、然も見ゆる名なり」と言ひたりけるなむ、「敵に選りても、如何でか、然る事はあらむ」、殿上人・上達部までも、興有る事に宣ひける。又、然りけるな(ン)めりと、今まで、斯く、言ひ伝ふるは」と聞こへたり。(信経)「其れ、又、時柄が言はせたるなり。全て、題、出だし柄なむ、詩も、歌も、賢き」と言へば、(清少)「実に、然る事、有る事なり。然らば、題、出ださむ。歌、詠み給へ」と言ふに、(信経)「いと良き事。一つは、何せむ。同じうは、数多を仕らむ」など、言ふ程に、御題は出でぬれば、(信経)「あな、恐ろし。罷り出でぬ」とて、立ちぬ。(女房)「手も、いみじう、真名も、仮名も、悪しう書くを、人も笑ひなどすれば、隠してなむ、有る」と言ふも、をかし。
作物所の別当する頃、誰が許に遣りけるにか有らむ、物の絵様、遣るとて、(信経)「此が様に、仕るべし」と書きたる真名の様、文字の、世に知らず怪しきを、見付けて、其れが傍に、(清少)「此がままに、仕らば、異様にこそ有るべけれ」とて、殿上に遣りたれば、人々、取りて、見て、いみじう笑ひけるに、大腹立ちてこそ恨みしか。