故殿など、御座しまさで、世の中に、事、出で来、物騒がしく成りて、中宮、又、内裏にも入らせ給はず、小二条と言ふ所に、御座しますに、何とも無く、うたて有りしかば、久しう、里に居たり。御前辺り、覚束無さにぞ、猶、え斯くては、有るまじかりける。
左中将(藤原斉信)、御座して、物語し給ふ。「今日は、中宮に参りたれば、いみじく、物こそ、哀れなりつれ。女房の装束、裳、唐衣などの、折に合ひ、弛まず、をかしうても候ふかな。御簾の側の、開きたるより見入れつれば、八人、九人ばかり居て、黄朽葉の唐衣、薄色の裳、紫苑、萩など、をかしう、居並みたるかな。御前の草の、いと高きを、(斉信)『何どか、此は、繁りて侍る。払はせてこそ』と言ひつれば、『露、置かせて、御覧ぜむ、とて、殊更に』と宰相の君の声にて、答へつるなり。をかしくも、覚えつる哉。(女房)『御里居、いと心憂し斯かる所に、住まひせさせ給はん程は、いみじき事、有りとも、必ず、候ふべき者に、思し召されたる甲斐も無く』など、数多、言ひつる。(女房)『語り聞かせ奉れ』と、なめりかし。参りて、見給へ。哀れ気なる、所の様かな。露台の前に、植ゑられたりける牡丹の、唐めき、をかしき事」など宣う。(清)「いさ、人の『憎し』と思ひたりしかば、又、憎く侍りしかば」と、答へ聞こゆ。(斉信)「おいらかにも」とて、笑ひ給ふ。
(清)「実に、如何ならむ」と思ひ参らする御気色には有らで、候ふ人達の、(女房)「左の大殿の方の人、知る筋にて有り」など、ささめき、差し集ひて物など言ふに、下より参るを見ては、言ひ止み、放ち立てたる様に、見馴らはず、憎ければ、(中宮定子)「参れ」など有る度の仰せをも、過ぐして、実に、久しう成りにけるを、中宮の辺には、唯、彼方方に成して、空事なども、出で来べし。
例ならず、仰せ事無くて、日頃に成れば、心細くて、打ち眺むる程に、長女、文を、持て来たり。(長女)「御前より、左京の君して、忍びて、賜はせたりつる」と言ひて、此処にてさへ引き忍ぶも、余りなり。(清)「人伝の仰せ事にて有らぬなンめり」と、胸潰れて、開けたれば、紙には、物も書かせ給はず、山吹の花弁を、唯一つ、包ませ給へり。其れに、(中宮)「言はで思ふぞ」と、書かせ給へるを、見るも、いみじう、日頃の絶え間、思ひ嘆かれつる心も、慰みて、嬉しきに、先づ知る様を、長女も、打ち目守りて、(長女)「(女房)『御前には、如何に、物の折毎に、思し出で聞こえさせ給ふなる者を』とて、誰も、怪しき御長居とのみこそ、侍るめれ。何どか、参らせ給はぬ」など言ひて、(長女)「此処なる所に、あからさまに罷りて、参らむ」と言ひて、往ぬる後に、御返り事、書きて、参らせむとするに、此の詩の上句、更に、忘れたり。(清)「いと怪し。同じ古詩と言ひながら、知らぬ人やは有る。此処許に覚えながら、言ひ出でられぬは、如何にぞや」など言ふを、聞きて、小さき童の、前に居たるが、「『下行く水の』とこそ申せ」と言ひたる。何どて、斯く、忘れつるならむ。此に、教へらるるも、をかし。
御返り、参らせて、少し程経て、参りたり。(清)「如何」と、例よりは慎ましうして、御几帳に、端隠れたるを、(中宮)「彼は、今参りか」など、笑はせ給ひて、(中宮)「憎き哥なれど、此の折りは、然も、言ひつべかりけりとなむ思ふを、見付けでは、暫し、えこそ慰むまじけれ」など宣はせて、変はりたる御気色も無し。童に教へられし言葉など、啓すれば、いみじく笑はせ給ひて、(中宮)「然る事ぞ。余り、侮る古詩は、然も有りぬべし」など仰せられて。序でに。(中宮)「人の、謎々合しける所に、頑なには有らで、然様の事に、労々じかりけるが、左の一番は『己、言はむ。然、思ひ給へ』など、頼むるに、然りとも、悪ろき事は、言ひ出でじと、選り定むるに、『其の詞を聞かむ。如何に』など、問ふ。『唯、任せて、物し給へ。』然、申して、『いと口惜しうは有らじ』と言ふを、実に、と推し量る。日、いと近う成りぬれば、『猶、此の事、宣へ。非常に、をかしき事もこそ有れ』と言ふを、いさ、知らず。『然らば、な頼まれそ』など憤かれば、覚束無しと思ひながら、其日に成りて、皆、方人の男、女、居分けて、殿上人など、良き人々、多く、居並みて、合はするに、左の一番に、いみじう用意し、持て成したる様の、如何なる事をか、言ひ出でむと見えたれば、彼方の人も、此方の人も、心許無く打ち目守りて、『何ぞ、何ぞ』と言ふ程、いと心許無し。(左の一番)『天に、張弓』と、言ひ出でたり。『右の方の人は、いと、興有りと思ひたるに、此方の方の人は、物も覚えず、あさましう成りて、いと憎く、愛敬なくて、彼方に寄りて、殊更に、負けさせむとしけるを』など、片時の程に思ふに、右の人、烏滸に思ひて、打ち笑ひて『やや。更に、知らず』と、口、引き垂れて、猿楽しかくるに、(左の一番)『籌差せ、籌差せ』とて、差させつ。(右の一番)『いと、怪しき事。此、知らぬ者、誰か有らむ。更に、籌、差すまじ』と論ずれど、(左の一番)『知らずと、言ひ出でむは、などてか、負くるに成らざらむ』とて、次々のも、此の人に、論じ勝たせける。いみじう、人の知りたる事なれど、覚えぬ事は、然こそは有れ。(右方)『何しかば、(右の一番)”え知らず“と言ひし』と、後に、恨みられて、罪去りける事」を、語り出でさせ給へば、「御前なる限りは、然は、思ふべし。口惜しく、思ひけん。此方の人の心地、聞こし召したりけむ、如何に、憎かりけむ」など、笑ふ。此は、忘れたる事かは。皆人、知りたる事にや。