【第百八十七段】
心憎き物、
物、隔てて聞くに、女房とは覚えぬ声の、忍びやかに聞こえたるに、答へ、若やかにして、打ちそよめきて参
る気配。物参る程にや、箸・匙などの、取り交ぜて、鳴りたる。提子の柄の、倒れ伏すも、耳こそ留まれ。
擣ちたる衣の、鮮やかなるに、騒がしうは有らで、髪の、振り遣られたる。
いみじう設ひたる所の、大殿油は参らで、長炭櫃に、いと多く燠したる火の光に、御几帳の紐の、いと艶やかに見え、御簾の帽額の、上げたる鉤の、際やかなるも、気清かに見ゆ。良く調じたる火桶の、灰、清気に、燠したる火に、良く描きたる絵の、見えたる、をかし。箸の、いと際やかに、筋違ひたるも、をかし。
夜、甚う更けて、人の、皆、寝ぬる後に、外の方にて、殿上人など、物言ふに、奥に、碁石、笥に入る音の、数多、聞こえたる、いと心憎し。簀子に、火、燈したる。物、隔てて聞くに、人の、忍ぶるが、夜中など、打ち驚きて、言ふ事は聞こえず、男も、忍びやかに打ち笑ひたるこそ、「何事ならむ」と、をかしけれ。